DUVET

愛するものについて

女の顔

 

女の顔

 

 彼の横顔が好きだった。とりわけ、本を読んでいるときの彼の横顔は美しかった。繊細で、静かで、品があり、烈しく、声をかけることをためらってしまうほどの、あるいは沈黙を許してしまうほどの美しさがそこにはあった。彼は自分をみつめるわたしに気づき、気づくまでの感覚はしだいに短くなり、それと比例して彼の中でのわたしの手触りがたしかなものになってゆくように感じられた。それから彼はやさしく顔をゆるめた。わたしたちは言葉を交わした。

 

 自分でも気づかないうちに、それははじまっていたのだと思う。最初にそれをしたのはいつか、どこからがそう呼んでいいものなのか、わからない。嘘、はじめて嘘をついたとき、わたしはわたしのなかに風が吹くのを感じた。風が吹くということはわたしのどこかに風が入り込めるほどの穴があり、風が通り抜けるほどの隙間があったということだ。わたしの嘘はわたしの心に隙間をもたらした。いつかどこかで、なにかのきっかけで穴があいてしまって、それからずっと風が吹いたままなのだ。微笑みとは本来、無意識によって生まれるべきものだ。けれどもわたしはそれを意識的に作ってしまった。思い出せるだけでもかなりの数の嘘を、わたしは彼とのあいだに重ねてきた。そのうちにわたしは、顔を奪われた。

 

 彼はいつかわたしに、運命を信じてしまいそうになる、と告げたことがある。休日に、遠出して見つけた雑貨屋でおそろいのマグカップを買い、雑貨屋のスタンプが押された茶色のうすい紙袋を手に下げて駅のホームで電車を待っているときだった。うんめい、運命。わたしはその聞きなれない言葉を何度も反芻し、それからなにかとてつもなく大きなものに包まれた心地がした。そこには彼とわたしのあいだにあるすべての言葉、すべての表情、すべてのしぐさ、そのひとつひとつになんの疑いようもなく、まるごとぜんぶ受け入れられるような飛躍があった。けれどもそれはすぐに終わった。なにごともなかったかのように、なんの前触れもなく突然終わった。その飛躍じたいが穴だったのかもしれない。わたしはしだいに、彼のまなざしに耐えられなくなっていった。彼のまなざしに耐えうる自分でなくなっていた。

 

 彼から見つめられないですむとき、わたしは静かに、張りつめていた顔をほどく。人に見せられる顔ではなかった。美しさと対をなせる醜さではなかった。ただひたすら純粋な醜さがわたしの首からそのまま伸び、そこでかろうじて人間の顔のかたちを保っている、饐(す)えたにおいのする顔。沈んで腐りきった死の顔。あのときの彼があのときのわたしの顔を見たら、きっとかわいそうなくらい驚いたはずだろう。けれどもわたしはその彼の顔を想像するだけで、いくらでも上手に微笑むことができそうな気がした。

 

 彼は仕事を休んでわたしを病院に連れて行ってくれた。医者の、「ストレスによるものでしょう」というありふれたなんでもない言葉を、わたしはおそれた。そのあと、後部座席に座るわたしに絶え間なく答えを求める彼に「仕事のせいかしら」と、きわめてやさしく、それでいてなんでもない感じで、答えた。コンビニに寄ったとき、なにかいるものはある、と彼は車をバックさせる姿勢のまま聞いた。わたしはその横顔に、なにも、お水くらいかな、と答え、彼はわかった、とうなずいた。その、どうぞ慈しみとでも呼んでくださいという感じの、とにかくその顔がとてつもなくきもちわるくて、わたしは彼が出て行ったあと、胃が腹を突き上げるような感覚にまかせて吐いた。

 

 今朝、目が覚めると、隣に彼の横顔があり、その向こうに、これまで毎年クリスマスの時期にふたりで選んで購入してきたスノードームの群が見えた。わたしはそのスノードームたちを思い切り彼の顔の上で叩き割りたい衝動に駆られた。あのきらきらが彼の顔にべったりとへばりついて、サンタや雪だるまや街があちこちに散らばり、破壊され、ガラスの破片に切れた彼の顔は首まで血にまみれ、それでも笑う、下品なラメと血にまみれてもなお、あなたは美しいまま──時計を見るとまだずいぶん早かった。自分の胸に乗せられた彼の腕をどかそうをしているうちに、彼が目を覚ました。起きてたの、うん、さっきね、トイレに行こうと思って、怒ってる、どうして、怒ってないよ、いや、変わった夢を見て、よく覚えてないんだけど、いつもの風景なんだ、いつもの、この家、うさぎがいる、目が赤いうさぎ、赤かった、そのうさぎをずっと見つめていたら、鳴くんだ、その鳴き声も、赤くて──

 彼はまた眠りについた。わたしはスリッパを履き、足許にまとわりついてくる冷え切った空気の中を歩いてトイレに向かった。花柄のやわらかいトイレットペーパーを引っ張りながら、夢の話を思い出した。わたしは夢を見たことがない。ほんとうは見ていたとしても、あんなふうにひとに話せるほど、覚えていたことはない。だからひとがする夢の話はよく覚えていた。人は夢をすぐに忘れる。手を洗いながら顔を上げると、空洞があった。とてつもない違和。そこは本来わたしの顔があるべき場所だった。しかし空洞。これは穴。ためしに何度かやってみて、それでも無理だった。できない。恐怖で泣き出しそうになっても顔が動くことはなく、ぼんやりと涙を落とし続け、わたしはその空洞と、黙ってまっすぐに向き合っていた。両手で引っ張りあげてみても、そこにははじめから力を入れるべき筋肉が存在していなかったかのように、ぱっと手を離した瞬間みっともなくもとの位置に戻るだけだった。指で眉や口角、頬をほぐしても、歯をくいしばっても意味がなかった、金縛りにあったみたいに、眼球だけしか動かない。叫びだしそうになって、何度も唾を飲み込んだ。

 

 袋を縛っていると、わたしはそのうち、声まで失ってしまうのではないかという予感に襲われた。顔を失ったいま、自分が自分の声にまで注意を払い、なにかしらの施しをしていることに気づき、震えた。無表情のまま体を震えさせる女の姿は、彼の目にはおもちゃみたいに映るだろうか。永遠にこのままではないかと思わせるほどのはげしい震えも、足音が近づいてきて彼が運転席のドアに手をかけた瞬間には完全におさまっていた。

 家につくと、休みなよ、と言われたのでわたしは頷き、用意された部屋着に着替え、ベッドに腰掛けた。彼はわたしの頬にキスをした。風が吹いた。わたしは微笑んだ。顔は動かないけれど、反射的に、あるいはスイッチを押せば灯りが点くような機械的な反応で、微笑んだ。わたしはそうされているあいだじゅう、ずっとスノードームの群を見ていた。

 喉の渇きで目が覚めて、リビングに行くと走り書きのメモが残されていた。ミネラルウォーターをグラスに注ぎ、一気に飲み干した。テレビをつけると、アライグマだかレッサーパンダだかの生きものが、ちいさなマンホールから出たり入ったりして遊んでいる映像が何度も繰り返し流されていた。画面の右上にワイプが表示され、ランダムに男や女の顔を映している。そのどれもが、模範解答のような表情だった。なぜ表情というものがあるのだろう。わたしが、あなたが、泣いているのは悲しいから、さみしいから、うれしいから、幸せだから、この思い、この感情、いいえ、感情を形容できる言葉なんて結局ただの答え合わせでしかないんじゃない、その、本来なら名付けようもなかったはずの、あらゆるものが自分の中にうず巻いて収集がつかなくなって最後にできあがったものが、あれはどれも完結していない、完結されていてはならない。同じ表情が存在するように見えるのは、名前がつけられたせい、わたしたちが、鈍ってしまったから。

 わたしは小さいころから、ひとの微笑む顔が好きだった。その曖昧さがまさに表情というものをすなおに体現している感じがして、好きだった。彼に対してもよく微笑んだ。彼のことを愛していたから、その場にふさわしいと思ったから。彼のまっすぐな眼差しに耐えるためには、そのためには、わたしの、これしかなかった。でもこれはわたしのあらゆるものを、砂のようにこぼし続けた。そうして行き場を失ったものは蓄積され、あたりを覆い尽くし、風に舞っては冷えてゆき、そして最後には拒んだ。拒絶。表情の拒絶。それは、急速に、決して譲ってはならないものを、人間が最後まで守り切らなければならないものを、わたしから奪っていった。レッサーパンダのような生きものが、まだマンホールで遊んでいる。「かわいいですねえ」「マンホールがお気に入りのようですね」、なにがいけなかったの、その場にふさわしいと、あれに耐えるために、正しかったことを続けてきたはずなのに、どうして、「五時になりました。ニュースをお伝えします」わたしはずっと間違え続けていた、頭と指先が冷え切っている、ああ、鍵の差し込まれる音、鼻の頭に汗をかいている、ドアが開く音、顔を失った女に、彼はなんと言うだろう、どんな結末を選択し、わたしの前に差し出すだろう、続けるという選択の先に、一体、どんな。微笑まなくては、いつもみたいに、早く、じょうずに微笑んでやらなければ、おかえり、待ってたよ、愛しているよ、あなただけだよ、わたしはどこにもいかないよ、大丈夫だよ。

 わたしはどこまでも後退りをつづけ必死に身をよじりながら、絶対に彼の心と触れようとしない、触れさせようとしない。近づいてくる足音に耳を澄ませながら立ちすくんでいるわたしを、赤い目が見ている。

 

Blue

砂は冷え切った手にぬくもりを伝え、

波の音に耳をすませるたび壊れそうになる。

夜の海に輝きはなく、ただ、遠くの明滅。

 

長いあいだそこにいた。

なにかを待っていたわけではないけれど、

あなたがそこにあらわれた。

あなたが笑い、それからずっと、それだけだった。

 

柔らかく目を細め、頬より白い歯を見せた。

オレンジ色の空、褪せたフェンス、透明のライター、

重たい水色の扉。鮮やかさは私をくたびれさせ、

それがあなたのやりかただった。

感情を形容できる言葉なんてない。

それらはいつも輪郭だけをなでて去っていく。

許してもいい、許されなくてもいい、

くりかえすうちに私はなにかを手放していた。

 

愛することが意味を失っていく、

抱きしめ合うたび、光のような痛みが胸に流れた。

わたしはあと何度、こんなことを繰り返すのだろう。

 

夜明け前の青さにつつまれながら目を閉じる。

ずっと喧騒にいたような耳鳴り。カーテンが揺れる。

眠る頬、あなたの、

それからじわりと喉が痺れて、少しだけ泣いた。